ニーチェ「この人を見よ」再読

常識、ルール、キリスト教的道徳、ドイツ人的思想、イデアリズム…なぜニーチェがこのように否定を繰り返さねばならなかったのか、彼が生まれながらにしての革命家、ダイナマイトであったことは言うまでもないが、ニーチェという人が生きたこの時代における「善さ」は、あまりにも彼の性質に不適合なものであったのだと思う。彼の柔軟さ、自由を当然のように求める開放的な精神はむしろ現代に生きる我々のそれに近い。彼は彼が生きたよりずっと未来を生きていたのだ。後世においては狂気に飲まれた哲学者として知られているが、私は彼ほど健康で純粋な、少しも汚染されたところのない人間を知らないとさえ思う。

 

宵はヨイヨイ明けてはこわい。

酔狂の過ぎるお時間です。

毎日桜並木の下を歩いているので下手に口をひらくと魂がでていってしまう。行燈に照らされた夜桜なんかはとくに危険だ。うっかり川の底に天国への入り口があるような気分になる。

 

さて今日からしがつである。

いよいよ慣れ親しんだ冬にも逃げ帰れなくなったというわけだ。

春の悪魔にとりつかれた人々が口々に嘘をつきはじめた。

嘘をつくたびに生じる歪んだ割れ目からどくどく血が流れて「えいえん」も「ぜったい」も血まみれになっているというのに、そこへわざわざ嘘をかさねるとは随分とペシミスティックな話である。エイプリルフールなんて浮かれた呼び名はやめて、血塗られた四月とでも名付けるべきではないか。私は耳をふさいで白いシーツに包まっている。きみもはやくここへ逃げてくればいい。

煙草と花

私を掻き集めている。私のようなもの、が深淵に落ちて消えてしまっても、私はまだここにあるのだと確信するために。私はこの両手で、私を抱きかかえることができる。



言葉を使うことは、自分を拡散させることだ。どんなに明確な意志も、言葉となった瞬間それは煙草の煙のように曖昧な軌道をえがいて拡散する。自分自身であってもそれを正しい質量のままに保存することはできない。それでも私は身体を燃やして、煙を充満させるのだ。あなた方は呼吸をするように私を取り込まねばならない。たとえ私が燃え尽きても、あなたの体内に、私は靄のように漂い続けるだろう。
しかしそれは、つまり取り込まれた私は、私であって私ではない。何故なら私は、常に生まれているからである。生まれ変わるのではなく、私のまま生まれ続けているのだ。枯れ落ちた花弁が、花そのものに、もう何の影響も与えないのと同じように。私は私の瑞々しさのために、私の残骸を切り離すのだ。私は煙草であり、花である。深く吸い込んだ煙は甘い蜜の香りに違いないだろう。

「何かを失わないと何かを得られない」がこの世の真理のような顔で横行闊歩しているが、そのような貧乏臭さは、恵まれた人間の前では何の影響も発揮することができないばかりか、あっけなく打ち砕かれてしまうのである。

運命は私に必要なものを用意し、不要なものを取り除く。私はそれを受容するだけだ。

何も失わず、何も得ない。何も捧げず、何も奪わない。私は私でさえあればよい。

死にむかって生きる人間の発する死にたいはつまり生きたいである。生きたいを発する人間が死へと加速しているのと対応している。生によって得られなかったものを、対である死に求めることができると考えている。そして同時に、生によって棄てられなかったものを、死によって棄てることができるとも考えている。そのために死の際までも恐怖を抱えていなければならないという悲劇がおこる。恐怖は、実はとても重いのだ。鎖のように縛り、鉛のように押さえつける。ただこのセカイから飛ぼうとした人間が、落ちることしかできなかった、これに勝る悲劇がほかにあるだろうか。
死の恐怖を受け取らずに魂を飛躍させる方法は、容れ物を破壊する以外にない。死によってもたらされる恐怖はこの容れ物が感受するのだ。魂だけを闇の帳の向こう側へそっと置いてやればいい。あとは速度が私を運ぶだろう。次に目をひらけば、私はそこへ辿り着いている。

死んでしまった昔の私を掘り起こして、今までごめんね、と言った。死んでいる私を、何度も何度も殺したりして、ごめんね。それはもうほとんど腐りかけていたけど、髪をきれいにととのえて、花をそなえてあげたら、すこしだけよくなった気がした。私はこれからもっとあなたから遠く離れたところへ行く。とてもさみしいけど、もう二度と戻らない。
あなたを苦しめる神様のようなものは、あなたが死んでしまったすこしあとに、容れ物の身体と一緒に丸めて捨てておいた。私には羽根があるし、新しい物語もみつけた。だから、安心してね。

たとえば私が死ぬことで絶望するひとがいるかもしれないのだから死んではいけないっていうのは理由にならない。私が生まれることで絶望したひとだっているかもしれないのに。
いや、そういうことではなくて。


でもだってやっぱり死ぬのはずるいと思うじゃん。誠実じゃないって。じゃあ誠実さってなに。いきることが誠実?選択したわけでもないのに?そんなわけはない。だから死ぬっていうのはひとつの選択に過ぎないって言ってるの。でもやっぱりそういうのは、ずるいと思うじゃん。

はじまりが選択できなかったからおわりも選択しちゃいけないんだって。それはきれいな理屈かもしれないけどただ綺麗なだけで有効じゃないよ。なにも証明してない。だから私は


死ぬことがおわりじゃないとか、赤ちゃんは親を選んでうまれてくるとか、全部後付けで、綺麗に飾って、陳腐な魔法みたいだね。そういう話はもういい。うんざり。
私が最高に幸せになって「魔法っていうのはこうやって使うのよ」って言うからみてて。